現代アニメ批評-アニメをさらにおもしろく-

現代アニメのストーリー面を主に批評していくブログです。自分の着想や視角をアニメーションをよりおもしろく観る「補助線」として書き綴っていきます。

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死の事実を継承していく…本当にそれでよいのか?

『ぼくらの』(森田宏幸監督、2007年)
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■前クールの作品だが、注目して観ていた『ぼくらの』が終わりを迎えた。常態化する死や、多数のキャラクターをさばききれないことなど、行き当たりばったりで大風呂敷を広げてしまったという印象がする。

■前に何度も本ブログで指摘したように、第5~8話が一番素晴らしかったように思える。死を選ぶことを拒絶した者と死に対して絶望の中で抗うことができなかった者との話は、この設定の中で活かされた話であった。

■結局、最終話は「ありきたり」な英霊譚を子供が語り継いでいくという意味不明なものとなってしまった。まさにアニメで表現するほどのことでもなく、また、「地球は守られたのか」という古典的アニメーションの結論さえ、うまく消化できないという悲惨な形になってしまったことは残念としかいいようがない。

★『ぼくらの』についての過去記事
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  1. 2007/12/27(木) 17:40:06|
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なぜ子供たちは戦わねばならなかったのか?:『ぼくらの』(10)第19話まで

『ぼくらの』(森田宏幸監督、2007年8月現在放送中)
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■いままで本ブログでは、『ぼくらの』を主にその死の表現と解釈について書いてきた。そこで、結末へ向かうにあたって、その「死」の意味を再度考えてみたい。

■命を動力源として作動するロボット(?)、ジアースに13歳の子供たちがパイロットとして登録された。負ければ地球の消滅、勝っても操縦者は死ぬという「必然的な死」を設定として、『ぼくらの』は衝撃的な作品として注目を集めた。

■必然的な死を迎えるにあたり、各パイロットである少年少女たちは、死に場所つまり死の意義を求めた。ここにこの物語のドラマである「痛さ」があった。

■しかし、その「痛さ」も残念なことに一回性、一個体の死の悲しさを物語で表現することの限界や、連続する「死」に視聴者が馴致してしまうことで希薄化しつつあった。

■そこで物語は、「親の死に様」へと展開していく。だが、未来ある子供の死ほど「痛さ」をうまく表現できるものはなく、親や大人の死はいわば「身勝手さ」が強調されることとなった。

■これから結末に向かって、ジアースをめぐる謎が明らかにされていくだろうが、その中で13歳の多くの死をどう埋め込んでいくか、どうまとめていくのかが注目されるところである。

■なぜ子供たちは戦って死なねばならなかったのか?この問いにどう答えるかを注視したい。

テーマ:ぼくらの - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/08/22(水) 20:03:13|
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死の平凡化の具体例:『ぼくらの』(9)第18話

前回の続き…

※第18話より、ネタバレあり。

■死が平凡化したことは、具体的にコモダ議員(コモの父)とタナカの死をめぐる表現の仕方に端的に示される。

■コモダ議員は、自分の信念を貫くために死を選択するが、死の抵抗を諦めることに違和感が残ってしまう。娘が近々ジアースを操縦し、地球を守ることで死を迎えることは確かだが、その死後に残された夫人はいったいどうなってしまうのか。

■タナカの死に関しては、次回で掘り下げられると思うが、彼女の死の描写が手抜きであったという感を否定できない。これほどまでに「多くの死」をテーマとして扱っている本作品だが、後半に入って死の扱いが粗雑になってきている。

■多くの場合、死に至るまでの過程やその決意は描かれている本作品だが、死後の描写はおざなりにされている点は注意しておく必要がある。

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  1. 2007/08/17(金) 07:24:35|
  2. ぼくらの
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死の「平凡化」と窮屈なストーリー:『ぼくらの』(8)

『ぼくらの』(森田宏幸監督、2007年8月現在放送中)
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■やはり、危惧していたとおりに死が慣性化してしまった。タナカ、コモダ議員の死が本話では扱われたが、象徴的意味すら持ち得ない「死」の表現になった。

■本作品は子供に注目するがゆえに、大人の「死」や、彼らの「死」に対する態度などへの注目が薄いのではないかと指摘したことがあるが、大人の死は子供以上に平凡化されてしまっている。これではやはり、大人への掘り下げは不十分であったといわざるをえない。

■そして最近の傾向として、相対的に子供への注目が薄まり、彼らが自らの死を「当たり前に」こなしていくという印象を受けてしまう。

■生活世界を取り巻く「政治」「メディア」「科学」「軍事」、いうなれば権力の恐ろしさが強調され始めているが、おそらく残話が少ない現状でこれらの各課題をまとめきるのは困難な作業だ。第二部に突入なんて可能性もあるが…

◇現在のストーリーを構成する各ファクターを簡単にまとめると…
・13歳の死
・ウシロとタナカの母子話
・コエムシたち兄妹の謎
→①「小さな」セカイ

・政治や軍、そしてメディアといった権力関係
→②「大きな」セカイ

・ジアースの存在の謎
(・コエムシたちの謎)
→物語り全体を終幕へ向かわせる決定的要素

①と②の軋轢をどう「謎」の解明と展開によって結びつけるかが見物だろう。

・ブログ内関連記事
『ぼくらの』(1)~(7)


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  1. 2007/08/15(水) 20:14:03|
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13歳で死を受け入れられるか?:ぼくらの(7)

『ぼくらの』(森田宏幸監督、2007年7月現在放送中)
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・総集編より
■この時期(7月)になると、4月スタートの2クールアニメは、総集編を組むことが多い。その中で今までたくさん記事を書いてきた『ぼくらの』に関して考えてみたい。

■『ぼくらの』のロボ操縦者はその多くが13歳であり、操縦後に死ぬ運命にある。総集編を観ていて感じたのが、彼らの死に際の決定についてだ。各々が自己の死を、正当化もしくは納得させて死んでいく。その中でも、本ブログで好評した第5話~8話のカコは印象的だ。彼は死という現実から逃げ続け、戦わずして死ぬことになった。

■そこで総集編のカコ以外の死のシーンについてだが、素朴な疑問として13歳にしてカコ以外の選択を選び取ることが出来るのかと思ってしまう。生への執着、翻って死への恐怖は思春期に高まるといってよい。つまり、少年期から思春期への万能感は、その喪失への恐れと表裏一体だ。

■『ぼくらの』では多くの場合、その矛盾を13歳の少年・少女たちの「特殊な環境」という設定に頼り解消してきた。友人の命が救える環境、親代わりの環境、家族に新しい生命の誕生などだ。

■このように、13歳で死を受け入れられるかという実は答えのない問いから、アニメ『ぼくらの』を観てみても楽しめるのではないだろうか。

・ブログ内記事:『ぼくらの』(1)~(6)

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  1. 2007/07/28(土) 06:35:40|
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