現代アニメ批評-アニメをさらにおもしろく-

現代アニメのストーリー面を主に批評していくブログです。自分の着想や視角をアニメーションをよりおもしろく観る「補助線」として書き綴っていきます。

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『スカイクロラ』:そのメッセージ

『スカイクロラ』(押井守、2008年)

■『スカイクロラ』は押井監督の最新作であり、2008年の期待作であった。正直、監督が気負いすぎている部分があり、衒学的にすぎる表現が連発するので、以上に困難な作品になっている。

■まず、セリフの少ない(沈黙シーンの多い)本作では、メッセージが意外なほどに直接的に伝えられる。それは、ひとつはあまりにも単純なメッセージ「人は、どこかで戦争が起き、そこで誰かが死んでいないと平和の意味すら忘れてしまう」というものだ。押井監督が対談本『戦争のリアル』などでも言及していることだが、やや単純な平和・戦争観である。なぜなら、人々は、むしろどこかで戦争が起きていても、知覚することはなく、また、空襲下にも日常生活があるように、「戦争が起きている=平和の意味を知る」という図式よりはもう少し複雑な世界に生きているのである。

■もうひとつは、「キルドレ」は永遠に子供のままで生きるがゆえに、過去を持たない。いや実際には過去があるのだが、過去は彼らには意味をもたない。これは現実でも、子供(幼児)が「時・場所」を超越した現在意識を持つことと同じである。この「キルドレ」の特性がどのようなメッセージにつながっていたかという点は、まだうまく言葉にできないので、(二回見たけど)もう一度観る必要があるのかもしれない。


■メモ:ティーチャー(教父)は、システムとして彼らに立ちはだかる。システムに逆らう意思とそれに打ち砕かれる現実が描かれる。

■メモ:空の美しさを、人が死ぬ場として残酷なものとして描く。


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テーマ:アニメ - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2009/06/01(月) 00:58:25|
  2. 空とアニメ
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アニメ内の学園都市について


■(現代)アニメの設定における学校共同体の重要さは今までに幾度も指摘してきた。
その中で今回は昨今のアニメの「学園都市」について覚書を記しておきたい。

■「学園都市」とは学校共同体の夢(ユートピア性)をさらに純化した舞台装置である。そこにはたいていの場合「学生しか」存在しておらず、主人公のまわりで「日常」が展開される。学園ものにお決まりの(?)甘酸っぱい恋愛関係から、先生たちとのやりとり、「せんぱーい」「こうはーい」的な関係性などが「無理なく」描写される。「学園都市」という無理な設定が、これらの関係性を「無理なく」詰め込ませることができるのだ。

■たとえば、『鋼殻のレギオス』、『とある魔術の禁書目録』など。
また学園都市は個人と個人の関係性を学生というひと括りの関係性でフラットにしてくれる。メインで登場する先生は、基本的には「大人」としては描かれない。極端な例としては、『とある魔術の禁書目録』の先生、そして『鋼殻のレギオス』では、先生すら存在していない。

■もしくは、今まで書いてきた「アニメにおける学校共同体」からすれば、学園都市とはそれをさらに押し広げた舞台である。

テーマ:アニメ - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2009/05/26(火) 13:07:28|
  2. 空とアニメ
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「空」想する少女たち:『耳をすませば』と『時をかける少女』:空とアニメ(4)

続き…(※注意!ネタバレあり)

■『耳をすませば』と対比するとよくわかるのだが、『時をかける少女』には、「夢」という要素は欠けている。「過去をやりなおす」という万能感をめぐる妄想部分が大きく取り扱われているが、主人公真琴には将来の「夢」などないといってよい。つまり、「待ってられない未来がある」という映画のキャッチコピーも「未来」がただ「ある」ということだけで、具体的には構想されてはいないし、最終部分で未来人で真琴の好きな間宮千昭が「未来で会おう」というが、当然、真琴が生きる未来で彼に会えるとは誰も思わないだろう。つまり、千昭に会うことも具体的夢でもないことになる。

■さて、結論を急いでしまうと、『時をかける少女』には「夢」という、いわば未来への展望はストーリー上に見えてこない。前向きという姿勢だけが真琴のキャラによって示されているだけだ。

■つまりは、『時をかける少女』がこれほどまでに人気を博した理由のひとつとして、その「夢」がなく「前向き」なだけという部分が受けたのではないかと思う。観る側も、10年前の『耳をすませば』とは大きく異なってきた。ただ、20代後半から30代にかけて、『時かけ』が受け入れられたのは偶然ではない。彼らは10年前に『耳をすませば』を経験した世代なのだ。

■10年前に聖司と雫の見た夢を、10年後の現代社会でどれほどまでまともに受け入れられる大人がいようか?一般的に言って、日本の高ストレス社会の中では『時かけ』の真琴の前向きさだけがまぶしくまた好感を持って迎えられる要素である。

■つまりは、「空」想し「空」を駆ける少女たちを観る側、つまり観客の世代こそが、少年・少女たちに自分たちの空想(妄想)を投影していたということではないだろうか。そういった意味でも『時かけ』の紺野真琴は、もっとも非現実なキャラが空想され、美しい映像とともに表現されているといってよい。

テーマ:時をかける少女 - ジャンル:映画

  1. 2007/06/22(金) 05:39:25|
  2. 空とアニメ
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「空」想する少女たち:『耳をすませば』と『時をかける少女』:空とアニメ(3)

『耳をすませば』(近藤善文、1995)
『時をかける少女』(細田守、2006)

■「空とアニメ」といえば、やはり宮崎アニメを無視は出来ないだろう。『風の谷のナウシカ』、『天空の城ラピュタ』、『魔女の宅急便』、そして『紅の豚』などなどである。今回は、宮崎駿作品ではないが、ジブリ作品で中学生活をテーマにした作品『耳をすませば』を取り上げ、10年の時代差のある作品『時をかける少女』との対比で考えてみたい。

『時をかける少女』の記事で触れた少年・少女の全能感は、主に「空想」から生じるものである。『時かけ』が「もしも時間を自由に移動できたら」という思春期までによく耽る夢をテーマ化したのに対して、『耳をすませば』ではまさに小説少女が自分の世界観を夢想し、空想するストーリーだ。話の中には、自分の小説世界を自分が猫のバロンと旅し、空を飛ぶシーンが印象的に描かれている。
しかし、そこに「現実」での恋物語、恋の現実がかぶさってくる。主人公の雫が恋する聖司はまさに「自己の夢」の実「現」のためにイタリアにバイオリン職人の修行(!)に行くことにする。ここで、雫の恋はいわば彼の「現実(実現)」にぶちあたってしまう(「現実」「夢」の説明がややこしいが…)。

■『耳を…』の雫の場合は、自分も夢を追いかけようするところに救いが生まれている。しかし、この映画を貫いている「大人的」メッセージ、「少年・少女よ、夢を抱け」は、子供的立場から観ると説教臭さを感じてしまうし、すでに大人になった人間が観ても同様な場合がある。特に現代社会ではそうではないでろうか?

■ここで話をやや一般的な世代論に広げて考えてみたい。今から十年前の1995年にこの映画は上映された。当時の中学・高校生には社会的に(大人からみて)ある不安が存在していたと考える。それはバブル崩壊後の社会の不安感が子供に感染しまいかという不安である。

■当時、社会はやや疲れかけていた。高度経済成長を成し遂げ、バブルの夢を見、そしてそれから醒めかけようとしていたのだ。しかし、人の精神構造は柔軟には変わるものではない。まだ夢の残滓が残っていたということだ。それを子供(受験生なども含めて)に当時、注入しようとしていたといえる。

■この夢の注入が、『耳をすませば』の中には存在している。これに対し、10年の時を経た現代アニメ作品『時をかける少女』はどうだろうか?

以下、続く…
2007/06/21に修正。

テーマ:スタジオジブリ - ジャンル:映画

  1. 2007/06/19(火) 07:07:21|
  2. 空とアニメ
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『エウレカセブン』:空と大地の和解:空とアニメ(2)

『交響詩篇エウレカセブン』(京田知之、2005-2006)
概要→公式ホームページ

■『交響詩篇エウレカセブン』は全50話にも及ぶ長編作品だ。主人公たちの操縦するロボ(LFO)は、いわば空をサーフィンしながら飛び回る。その空中シーンの爽快感や空中での人同士のコンタクトも巧く描かれている。

■主人公レントンは、不思議な少女エウレカとともにゲッコーステイト(浮遊戦艦)に乗る。そこではいわば「家族社会的」な生活が繰り広げられる。そこで重要なのは、レントンという「子供(作中にも何度もこのタームは出現し強調される)」と、それを取り囲む、「若き」大人たちだ。一部では、大人たちによるレントン教育、そして彼の成長の物語だという声もあるようだが、私はそうではないと思う。

■つまり、レントン自身が成長するということで、周りの大人たちの方が影響を受けていく、ゲッコーステイト内でのやりとりは「空」の爽快感を補完する物語の主軸のひとつである。また、レントンたちは幾度となく地上へ降り立つことで物語を進展させていく。

■大地が崩壊していくといった世界観の下で、ストーリーが進んでいくと、大地が別の生命体であるということが明らかになり、その生命体の人型をした存在が少女エウレカなのである。彼女との対話は、大地との対話でもあったのだ。また、空を飛ぶための粒子(トラパー)も大地と密接に関係しており、大地なしにはサーフ(リフ)できない。

■近代のもたらした操作環境の下で生きる現代社会にとって、操作が半ば不可能な環境とのコミュニケートは重要なテーマであろう。例えば、大洋や深海、空や宇宙などである。本作品は「セカイ系」というよりかは、オーソドックスな成長譚ではあるが、環境セカイとの対話を盛り込んだ点では出来よさは出色である。

■また、主人公レントンが最後に選んだ道は、エウレカとの共生であり、自己の今での生と人としての未来の可能性を捨て去るものであった。それほどまでに、エウレカと同じ時を刻みたいという願いは、とても感動的に心に響くものであった。

テーマ:アニメ - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/06/17(日) 08:01:02|
  2. 空とアニメ
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批評によって「アニメをより面白く」がモットーです。
色んな角度からアニメを観る試みをしたいと思っています。

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