現代アニメ批評-アニメをさらにおもしろく-

現代アニメのストーリー面を主に批評していくブログです。自分の着想や視角をアニメーションをよりおもしろく観る「補助線」として書き綴っていきます。

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巨大な「セカイ」は身近にある:『巌窟王』

『巌窟王』(前田真宏監督、2004-2005)全24話。
公式HP
☆東京国際アニメフェア2005、テレビ部門最優秀賞受賞

■2007年6月現在、『ロミオ×ジュリエット』にハマッているので、見始めたアニメ。本ブログ記事の『ロミ×ジュリ』でも触れたように、「大人のためのアニメ」として製作された本作品は、原作へのアレンジメントでかなり愉しめる。

■『巌窟王』の中で繰り返し強調されるのは、パリという囲われた大都会とそこで権力のやり取りをおこなう人間たちだ。当然、それがいかに「狭い世界」での出来事かは視聴者からすれば手に取るようにわかる仕組みになっている。

■本作品では、その狭い世界の中で迷う主人公(アルベール)たちを描写している。しかも彼らを苦しめているのは、原作での主人公『巌窟王、モンテ・クリスト伯爵』であり、クリスト伯爵自身も、昔の友人たちがこの狭い世界を獲得するための犠牲となった人間であった点にも注目すべきだろう。

■主人公たちは、幾度となく「セカイ」に翻弄される。それは自分の両親たちが作り出したセカイであるにも関わらず、だ。この点が本作品では巧みに表現されているといえる。

gankutuou

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テーマ:映像・アニメーション - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2007/06/28(木) 08:42:49|
  2. 巌窟王
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痛さとアニメ:『ぼくらの』(2)

前回の続きです。

■さて続いては、話を戻して5~8話の第二の特徴として、大人の持つ「子供の頃の記憶」に対する『ぼくらの』の発するメッセージについて考えてみたい。大人はいつも「子供時代の記憶」を想起し、再解釈し、また再現化したりする。だが、よく考えてみると、子供も「より子供の記憶」を再解釈し、その痛みの中に生きているのだ。

■本作品の第8話の千鶴は、最期に昔(幼少)の自分を思い出す。これから死を迎えるという極限状態が、彼女をそこまで大人に成長させたと解釈してもよいが、自分の記憶(場合によってはトラウマ)と向き合い受け入れることは、子供・大人などという区分関係なく一生行い続ける行為だ。この描写は、「記憶」を大人の専売特許にしている社会の現状や子供を「一個人」ではなく「子供」としてしか見ない現況へと鋭く突き刺さっている。

テーマ:ぼくらの - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/06/27(水) 07:24:39|
  2. ぼくらの
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痛さとアニメ:『ぼくらの』(1)

『ぼくらの』(森田宏幸監督、現在放送中)
公式サイト

※主に5~8話について。ネタバレあり。
■漫画原作の本作品だが、ほとんどは13歳の少年・少女達が、戦うとその本人が死ぬというロボットに乗り、世界を守るという強烈な設定だ。

■2007年6月、現在もまだ放映中でこれからの展開に期待大だが、特に5~8話の一連のストーリーは大変興味深いものだった。

■子供がダメな大人たちをみつめるという関係は、最近のいじめ問題などからよくドラマなどでテーマ化される。しかし、アニメではなかなかそこまで「痛い」話に鋭く突っ込んでこなかったのが現状だ。なにせ、昔から連綿と続く、「アニメ=気持ちいい」的な偏見はまだ残っているからだ。

■しかし、『ぼくらの』5~8話は、強烈に「痛い」話だ。まずはじめに、本田千鶴の家族に注目したい。家族が楽観的過ぎて、自分のことを大切に思ってもらえないといったような感情を13歳の千鶴は抱いている。さて、この家族は「ダメ」家族だろうか?いや違う、「理想的な」家庭などは現実には到達不可能なのは当然として、千鶴の家庭は、いわゆる「良い」家庭といってよい。千鶴はそれに不満を抱くのである。これは親のせいではない、子供の主観的世界のせいなのだ。この描写は非常にリアルだ。

続く

テーマ:ぼくらの - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/06/27(水) 07:24:09|
  2. ぼくらの
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東京という「異空間」と「夢」の現実化:『ラーゼフォン』(1)

『Rahxephon』(出渕裕、2001)
ストーリー概説:公式HP

■ストーリー第一話は「東京」以外消滅した世界の「東京」が突如襲撃されるというところから始まり、その後、「東京」の外の世界が存在していること、そして、外の世界からすれば「東京」が特殊であることが判明していく。

■東京は現代世界においても「特殊」な空間である。過密都市・過剰人口都市といわれるが、それでも東京住民は自分達の時間を生き続ける。そして、東京の人の多さに呆れ返り、人の多さにイラついたりするのだ。自分もその人の多さに寄与していることも忘れて。

■『ラーゼフォン』では東京は大きな「卵」に包まれていて、その中では時間の流れは異なるという設定だ。この設定の象徴するところも面白い。それは主人公、綾人が「セカイ」の決定者であり、最後に彼自身が卵(繭とでもいえる)から孵化することが世界を決定付けるとされている。

■卵の中は、思春期の青年の象徴だ。思春期を経て、人はいろんな決定にぶつかり、自分の卵(繭)を少しずつ破っていく。もしくはそれが破られていく。人間は、主観によってしか「セカイ」を認識できない生き物であるとするならば、思春期を経ることはセカイを決定することに等しいのかもしれない。

■綾人は自分が人でなくなること(もともと違うので人でないことを受け入れることの方が正しいかもしれない)でセカイを創出するが、そこで対峙する問題が、セカイ系のテーマである私的問題(恋人、美嶋遥)だ。

■しかし、本作品は『エヴァンゲリオン』と異なる解答を用意している。それは、自分が変わろうとも「思い出」が存続し、それがその人にとってかけがえのないものであることこそが「現実」であるという。空想肯定的な結論を提示したのだ。

■「夢」の肯定化は、深読みすれば、思春期の青年に対するメッセージでもあり、東京に対するメッセージでもある。なぜなら、「時間」は自分だけのものであるのだから、時間を忘れて働いたり、生きていくことにどれだけ意味があるのだろうか?時間を豊穣に生きること。その問いかけがこの作品によってなされているのではないだろうか。
他に参照:「現代アニメの出発点としてのエヴァ考」

テーマ:映像・アニメーション - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2007/06/25(月) 06:33:03|
  2. ラーゼフォン
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「合体」というコミュニケーション:『創聖のアクエリオン』

『創聖のアクエリオン』(河森正治監督、2005)

■この作品の神話的な世界設定は、まさにアニメ的想像力を使って時空スケールを十分に描き出されたものであるといってよい。

■本作品は、『エヴァンゲリオン』的セカイ観へのひとつの応答となっている。エヴァは三体のロボットを三人のキャラが操縦し、交わり対立しあいストーリーが進んでいった。そして最後に主人公の碇シンジに綾波レイとのセカイかアスカとのセカイかを選択させたところに(映画の)結末があったことは多く指摘されている。

■『アクエリオン』では、もともと三体のマシンが三様に合体することに特徴がある。これは、三人によってしか創造することができないセカイを象徴する。ストーリーは主に、「合体する」ことをめぐって各登場人物が互いに衝突しあったり、触れ合ったりする。この点が設定の始まりから『エヴァ』との大きな違いであり、これが「セカイ」をめぐる解釈にも影響を与えている。

■セカイは「わたし(一人称)」から「わたしときみ(二人称)」へ、そして『アクエリオン』では三人称的セカイが描き出されている。「自分」と「ある他者」との関係を繋いでくれるのもまた「別の他者」なのだ。

他に参照:「現代アニメの出発点としてのエヴァ考」

テーマ:映像・アニメーション - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2007/06/23(土) 08:40:13|
  2. 創聖のアクエリオン
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閉ざされた空間とテクノロジーの魔物:『Darker than Black』(1):空とアニメ(5)

『DARKER THAN BLACK-黒の契約者-』(岡村天斎監督)
解析不可能な異常領域「地獄門(ヘルズ・ゲート)」の出現により、本当の“ 空” を失った東京。
それと呼応するように現れたのは、特別な能力を身につけた者たちだった。
能力を得る代償として、人間らしい感情が希薄になり、人を殺めることさえ冷徹に行う彼らを、人々は畏怖を込め、「契約者」と呼んだ。
(公式HPより一部抜粋)

現在、第12話まで視聴:今回は主に第11話~12話について。
DARKER THAN BLACK


■現在、放送中のアニメ『DARKER THAN BLACK』だが、ほぼニ話で構成される小ストーリーが絡み合って大きなテーマへと向かっていく流れだ。その中で重要なのが「ゲート」であり、これは東京内にできた異空間だ。その中では物理法則も異なっている。

■さて、空間を分けるという発想は現代アニメにはよく見られる設定だ。例えば、『ラーゼフォン』でも東京だけが異空間(異なる時空間でもあった)になるという設定だった。

■テクノロジーを支えるいわゆるサイエンス(科学)は、もともと分科学という意味であり、「分ける」ことがその原義でもある。

■アニメ内のフィクションとしての空間分断は、象徴的な意味合いを持っている。フィクションであるがゆえに、そしてアニメーションだからこそ大胆に空間を分断することができる。例えば東京はよく分断されたり、破壊されていたりする(笑)。『DARKER』でも謎のゲートでは物理空間も異なるが、地球自体が成層圏によって特殊空間化されている点にも注目したい。そこでは「星は見えず」、紛い物(?)の星は主人公の黒(ヘイ)をはじめ契約者(能力者)の活動や運命とシンクロしている。

■本作品の空間分断は、テクノロジーを以って細部まで「分け続けた」人類の直面したひとつの問題系が象徴されている。人は「異空間」としてのゲートの中でしか夢を見ることができない。生の領域の反転がここには表現されている。

■これから、本作品がこれからどう「ゲート」、「契約者」、そしてゲート外の人間像を描き出していくかに注目したい。

※2007年6月23日修正を加え再掲載。

テーマ:DARKER THAN BLACK -黒の契約者- - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/06/23(土) 08:12:52|
  2. Darker than Black
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「舞台装置」の使い方:『ロミ×ジュリ』(4)

romejuli_banner.jpg

現在、第12話まで視聴。

■さて、ストーリーが見えなくなってきている第12話現在(この状態がアニメを観る時間としては至福の時でもあるが…)、このブログでストーリー自体への批判を加えることは当面むずかしそうだ。そこで、今回は主題歌と各話の題について、少し考えてみたい。

■OP主題歌はLENA PARKの歌う「祈り~You Raise Me Up」、EDは12012の曲「 サイクロン」となっている。テーマ曲は最近では内容と関係なかったりする場合が多い。しかし、これに関しても『エヴァンゲリオン』は、曲を内容に関して効果的に用いることに成功している。これ以後、アニメ(特に漫画原作ではないもの)は、テーマ曲にもかなり気を配るようになった。『ロミ・ジュリ』の場合、「祈り」の起用が抜群に効いていると思う。

■前にも書いたが、『ロミ・ジュリ』に関してはストーリーの根幹は既知のものであり、あとはアレンジメントの問題である。そこでネオ・ヴェローナという世界観、脇役の配置などを効果的に示しているのが、OP曲であると思う。

■そして各話の題名だが、第12話の場合「安息~そのままで」は第11話のの平和で平穏な感じをにおわせる題名だが、その展開の急さたるや凄まじかった。テレビの前で「そこまで二人は一途か!」と心の中で叫んだ人も多かっただろうが、ストーリーの運びとしては矛盾もなく面白い流れだ。

■曲にせよ、題名にせよ、それらのディテールの工夫によって作品自体を盛り上げ視聴者を惹きつける、いわば「舞台装置」と呼べるものである。この辺にも気を配って見ると、集団で生み出す総合芸術としてのアニメの鑑賞も深みがますかもしれない。

テーマ:ロミオ×ジュリエット - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/06/22(金) 09:32:09|
  2. ロミオ×ジュリエット
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「空」想する少女たち:『耳をすませば』と『時をかける少女』:空とアニメ(4)

続き…(※注意!ネタバレあり)

■『耳をすませば』と対比するとよくわかるのだが、『時をかける少女』には、「夢」という要素は欠けている。「過去をやりなおす」という万能感をめぐる妄想部分が大きく取り扱われているが、主人公真琴には将来の「夢」などないといってよい。つまり、「待ってられない未来がある」という映画のキャッチコピーも「未来」がただ「ある」ということだけで、具体的には構想されてはいないし、最終部分で未来人で真琴の好きな間宮千昭が「未来で会おう」というが、当然、真琴が生きる未来で彼に会えるとは誰も思わないだろう。つまり、千昭に会うことも具体的夢でもないことになる。

■さて、結論を急いでしまうと、『時をかける少女』には「夢」という、いわば未来への展望はストーリー上に見えてこない。前向きという姿勢だけが真琴のキャラによって示されているだけだ。

■つまりは、『時をかける少女』がこれほどまでに人気を博した理由のひとつとして、その「夢」がなく「前向き」なだけという部分が受けたのではないかと思う。観る側も、10年前の『耳をすませば』とは大きく異なってきた。ただ、20代後半から30代にかけて、『時かけ』が受け入れられたのは偶然ではない。彼らは10年前に『耳をすませば』を経験した世代なのだ。

■10年前に聖司と雫の見た夢を、10年後の現代社会でどれほどまでまともに受け入れられる大人がいようか?一般的に言って、日本の高ストレス社会の中では『時かけ』の真琴の前向きさだけがまぶしくまた好感を持って迎えられる要素である。

■つまりは、「空」想し「空」を駆ける少女たちを観る側、つまり観客の世代こそが、少年・少女たちに自分たちの空想(妄想)を投影していたということではないだろうか。そういった意味でも『時かけ』の紺野真琴は、もっとも非現実なキャラが空想され、美しい映像とともに表現されているといってよい。

テーマ:時をかける少女 - ジャンル:映画

  1. 2007/06/22(金) 05:39:25|
  2. 空とアニメ
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「空」想する少女たち:『耳をすませば』と『時をかける少女』:空とアニメ(3)

『耳をすませば』(近藤善文、1995)
『時をかける少女』(細田守、2006)

■「空とアニメ」といえば、やはり宮崎アニメを無視は出来ないだろう。『風の谷のナウシカ』、『天空の城ラピュタ』、『魔女の宅急便』、そして『紅の豚』などなどである。今回は、宮崎駿作品ではないが、ジブリ作品で中学生活をテーマにした作品『耳をすませば』を取り上げ、10年の時代差のある作品『時をかける少女』との対比で考えてみたい。

『時をかける少女』の記事で触れた少年・少女の全能感は、主に「空想」から生じるものである。『時かけ』が「もしも時間を自由に移動できたら」という思春期までによく耽る夢をテーマ化したのに対して、『耳をすませば』ではまさに小説少女が自分の世界観を夢想し、空想するストーリーだ。話の中には、自分の小説世界を自分が猫のバロンと旅し、空を飛ぶシーンが印象的に描かれている。
しかし、そこに「現実」での恋物語、恋の現実がかぶさってくる。主人公の雫が恋する聖司はまさに「自己の夢」の実「現」のためにイタリアにバイオリン職人の修行(!)に行くことにする。ここで、雫の恋はいわば彼の「現実(実現)」にぶちあたってしまう(「現実」「夢」の説明がややこしいが…)。

■『耳を…』の雫の場合は、自分も夢を追いかけようするところに救いが生まれている。しかし、この映画を貫いている「大人的」メッセージ、「少年・少女よ、夢を抱け」は、子供的立場から観ると説教臭さを感じてしまうし、すでに大人になった人間が観ても同様な場合がある。特に現代社会ではそうではないでろうか?

■ここで話をやや一般的な世代論に広げて考えてみたい。今から十年前の1995年にこの映画は上映された。当時の中学・高校生には社会的に(大人からみて)ある不安が存在していたと考える。それはバブル崩壊後の社会の不安感が子供に感染しまいかという不安である。

■当時、社会はやや疲れかけていた。高度経済成長を成し遂げ、バブルの夢を見、そしてそれから醒めかけようとしていたのだ。しかし、人の精神構造は柔軟には変わるものではない。まだ夢の残滓が残っていたということだ。それを子供(受験生なども含めて)に当時、注入しようとしていたといえる。

■この夢の注入が、『耳をすませば』の中には存在している。これに対し、10年の時を経た現代アニメ作品『時をかける少女』はどうだろうか?

以下、続く…
2007/06/21に修正。

テーマ:スタジオジブリ - ジャンル:映画

  1. 2007/06/19(火) 07:07:21|
  2. 空とアニメ
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アニメであるがゆえの「美しき」世界:『ロミ・ジュリ』(3)

現在、第7話まで視聴。

前に予想したように、ストーリーに分岐点が出現し、奥深さを予感させてくれる筋になってきた。そこには一見、強引な展開も多く用意されている。例えば、ジュリエットがうっかり人込みの中へ花を落としたら、その下にはロミオが偶然たたずんでいたりするわけだ。

■さて、ある意味でこの昼ドラ的な強引な展開も、アニメであるからゆえに許されることもある。まさにアニメーションは人間の認識に対して麻薬的な眩惑を提供してくれる。これがアニメのよさでもあり、恐ろしさでもるといえるだろう。もし、実写の昼ドラでこのような展開を用意すれば、嘘臭さだけが鼻につくということになりかねない。特に昼のドラマにおいて泥沼劇が流行ったのは、何も有閑マダムが暇をもてあまし刺激の世界を希求したからだけではない。つまり、実写ドラマというメディアそのものが泥沼的一種の生々しいリアルさを映し出しているものだと考えられる。それに対してアニメーションは、デフォルトされたキャラによって演じられる場合が多いために、「有り得ない」美しさを保持できるといってよいだろう。

■現時点で『ロミ・ジュリ』は、まだまだ世界観の広がりを期待させてくれる作品である。今後に期待したい。

テーマ:ロミオ×ジュリエット - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/06/19(火) 03:40:36|
  2. ロミオ×ジュリエット
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『エウレカセブン』:空と大地の和解:空とアニメ(2)

『交響詩篇エウレカセブン』(京田知之、2005-2006)
概要→公式ホームページ

■『交響詩篇エウレカセブン』は全50話にも及ぶ長編作品だ。主人公たちの操縦するロボ(LFO)は、いわば空をサーフィンしながら飛び回る。その空中シーンの爽快感や空中での人同士のコンタクトも巧く描かれている。

■主人公レントンは、不思議な少女エウレカとともにゲッコーステイト(浮遊戦艦)に乗る。そこではいわば「家族社会的」な生活が繰り広げられる。そこで重要なのは、レントンという「子供(作中にも何度もこのタームは出現し強調される)」と、それを取り囲む、「若き」大人たちだ。一部では、大人たちによるレントン教育、そして彼の成長の物語だという声もあるようだが、私はそうではないと思う。

■つまり、レントン自身が成長するということで、周りの大人たちの方が影響を受けていく、ゲッコーステイト内でのやりとりは「空」の爽快感を補完する物語の主軸のひとつである。また、レントンたちは幾度となく地上へ降り立つことで物語を進展させていく。

■大地が崩壊していくといった世界観の下で、ストーリーが進んでいくと、大地が別の生命体であるということが明らかになり、その生命体の人型をした存在が少女エウレカなのである。彼女との対話は、大地との対話でもあったのだ。また、空を飛ぶための粒子(トラパー)も大地と密接に関係しており、大地なしにはサーフ(リフ)できない。

■近代のもたらした操作環境の下で生きる現代社会にとって、操作が半ば不可能な環境とのコミュニケートは重要なテーマであろう。例えば、大洋や深海、空や宇宙などである。本作品は「セカイ系」というよりかは、オーソドックスな成長譚ではあるが、環境セカイとの対話を盛り込んだ点では出来よさは出色である。

■また、主人公レントンが最後に選んだ道は、エウレカとの共生であり、自己の今での生と人としての未来の可能性を捨て去るものであった。それほどまでに、エウレカと同じ時を刻みたいという願いは、とても感動的に心に響くものであった。

テーマ:アニメ - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/06/17(日) 08:01:02|
  2. 空とアニメ
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『時をかける少女』:全能感の喪失をどう描くか?

『時をかける少女』(細田守監督、2006)
概要:高校二年生、紺野真琴は、あるきっかけから「今」から過去に遡ってやり直せる力、タイムリープ能力を持ってしまった…(公式サイトより、一部引用)


■昨年大ヒットした、泣く子も黙る日本アカデミー賞受賞作品が『時をかける少女』だ。日本アカデミー賞のアニメ部門創設は、現代アニメがサブカルからメインカルチャーへと躍り出た証明だともいえる。しかし同時に、単純化、消費化のはじまりとも捉えられるだろう。「賞」文化においてエキセントリックな、もしくはアンダーグラウンドな良さは、多くの場合認められない。この意味で、本作品は今後のアニメ文化にとっての試金石であるかもしれない。
これは観る前に書いたものです。続きは観た後の感想です。

■さて、観終わっての感想だが…正直、理解に苦しむ作品であった。その画像のクオリティ、また、工夫された撮り方などが評価されたのだろうか?この批評ブログは(一応)ストーリー批判が中心なので、それらは措くとする。するとどうだろう?何が伝えたかったのか?伝えたいものなどない、という意見もあろうが、アカデミー賞という権威に負けて(笑)少し考えてみた。

■いわゆる学園モノは、いつか詳しく述べたいが、いろんな意味での「喪失」がテーマであるとわたしは考えている。この映画の場合、女子高生、真琴のタイムリープという万能的能力とその喪失、またはそれによる告白という「大切な時の」喪失がテーマだ。それをほろ苦くも前向きに表現するところに物語があるのだろう。

■少女・少年は、万能感、つまり将来何にでもなれる、何でもできると感じている存在である。それが学校社会内での擬似的「社会」勉強や、挫折を味わいながら、その万能感を失っていくものだ。本作品のタイムリープは万能感の象徴であると考えられる。本来であればこの主題をもっと掘り下げて欲しかったが、中途半端に終わったとしかいいようがないのは残念である。

もしかしたら続く…
「空とアニメ(3)」で再度触れた。

テーマ:時をかける少女 - ジャンル:映画

  1. 2007/06/17(日) 07:54:22|
  2. 映画
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二人のセカイ系:『ロミ×ジュリ』(2)

続き…現在、第4話まで視聴。

■本ブログ記事「現代アニメの出発点としてのエヴァ考」で書いたように、ポスト・エヴァの現代においては「セカイ系」をどう描いていくか、もっといえばどう結末させるか、どう落とすか、という問題に焦点が当たっている。

■『ロミオ×ジュリエット』では、ストーリーの根幹部が既存のものとしてしっかり固定されているからこそ、ディテールにこだわったり、基本ストーリー以外の奥底ストーリーにも気を配ることが可能である。そういった意味でもこの作品は期待できる。

■特に、セカイ(今のところ「ネオ・ヴェローナ」)の命運は、ロミオとジュリエットの「私的な」恋の行方に委ねられているといえる。つまり、セカイ系にも分類可能である。その中でもこの作品の特徴は、一人ではなく二人にセカイが握られているという点であろう。この点が以後のストーリーにどう関わってくるかを注視したい。

テーマ:ロミオ×ジュリエット - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/06/16(土) 07:22:18|
  2. ロミオ×ジュリエット
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『Last Exile』:「空」をめぐるアニメの失敗例:空とアニメ(1)

『ラスト・エグザイル Last Exile』(千葉孝一監督、2003)
概要:産業革命時代の雰囲気を色濃く残した世界、プレステール。
そこに住むクラウス(15歳)は、父の残したヴァンシップ(小型飛行艇)を使って、幼なじみのラヴィ(15歳)とともに空の運び屋をしていた。
彼らの夢は、父達が越えることのできなかった、はるか上空の巨大な嵐・グランドストリームを越えること。だがある日、謎めいた少女アルヴィス(11歳)を空中戦艦シルヴァーナに送り届ける依頼を受け継いだことから、彼らは、世界を揺るがす戦いに巻きこまれてゆく。(公式HPより一部抜粋)


■アニメーションで「空」を描くことは、アニメ発祥の頃からのオーソドックスな表現技巧であった。なぜなら、アニメこそが想像力の産物なのであり、空を飛ぶことは人間の想像力を刺激し続けた(今もしている)。そして、現代アニメにおいて「空を自由に飛び回る」という表現がより鮮明に可能となった。そして、アニメも当然フィクションであるにもかかわらず、実写映像の中で「空を飛ぶ」というのは一種のうそ臭さが逆に目立つ。それにはアニメの方がカメラアングルの制限がないことも一因であろう。ということで、現在でもアニメの「空」の表現は群を抜いて素晴らしといえる。

■その中で最近では、宮崎駿を代表とするアニメにおける空の表現者があらわれた。この『Last Exile』でも主人公が飛行気乗りという設定もあり、空を自由かつエキサイテイングに飛び回るシーンが大きな売りとなっている。

■しかし、本作品の残念なところは、その「空の美しさ」に頼り切ってしまっていることだ。つまり、ストーリーが凡庸で、それを通り越して意味不明さなのだ。ヒトはやはり生まれし後より大地に這いつくばって生きる存在である。そして、そこにドラマが生まれるのだ。ということで、「空」を生かすかたちでドラマを仕上げないといけないわけだが、この作品ではそれが出来ていない。「空の美しさ、爽快感」だけを評価するなら、ストーリーなど要らないというのは、その宣伝的意味は否定はしないが、何か乱暴すぎる感じがする。

■この構造は、日本の美写アニメが陥る陥穽ともいえるものである。空は大地と対峙し、または対話することによって存在が証明されるともいえる。大地との対話、大地より生まれし人のドラマが観たいのである。

以下、「空とアニメ」(2)『エウレカセブン』へ続く。
  1. 2007/06/14(木) 22:38:56|
  2. 空とアニメ
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『ハルヒ』に見るヲタ・アニメの不可能性(2)

前の続き…

■「不可能な夢」を徹底させた『ハルヒ』には一種、決然としたものも感じる。いわば潔さだ。これが多くのファンを集めた理由なのかもしれない。最近はヤヤコシイ作品や説教くさい作品が「オタク」をめぐって出現している。例えば『げんしけん』『N・H・Kにようこそ』などである。→いつかコメントしたい。

■しかし、消費欲求の虜となったファンは動物的に次の刺激を求め続ける。これにどこまで対応していけるかが『ハルヒ』系アニメのポイントであろう。だが、ここでヲタの驚異的な「非生産的」な生産性を考えてみれば、これもさして問題ではないのかもしれない。つまり、彼らは『ハルヒ』を無限反復的にネットや同人誌などを通じた媒体で再生産し消費していくからである。出口の見えない消費行動だが、半永久的活動を可能にするだけのメディア(媒体)が世の中にすでに存在している。このことが現代アニメを考える上でも考慮すべき点であろう。

テーマ:涼宮ハルヒの憂鬱関連 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/06/14(木) 09:47:49|
  2. 涼宮ハルヒ
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今、「純愛物」を描くことの意味は?『ロミ×ジュリ』(1)

『ロミオ×ジュリエット』(追崎史敏監督、2007、現在放送中)
シェークスピア『ロミオとジュリエット』を原作とした作品。

※現在、第二話まで視聴(gooアニメより)
■多様化するアニメ作品の中で、いわゆる西欧中世的な街並みと時代設定を背景としたオーソドックスな「純愛物」である。もちろん、深夜枠時間帯の放送ということもあり、終盤で泥沼化する可能性は大だ。

■しかし、表現の多様性の観点からすると本作品は、ハウス名作劇場シリーズ、NHKの『雪の女王 ~THE SNOW QUEEN~』などと並ぶ名作になりうるかもしれないのでこれからが楽しみな作品であろう。

■また、ゲーム「ファイアーエンブレム」と激しく被ってしまうキャラ(特に飛ぶ馬など)と台詞まわしも気になるところである。

■「純愛物」は、この作品自体がシェークスピアが原作であることを考えてみても表現作品の永遠のテーマである。その中でも現代にアニメーションとして「純愛物」を展開する意味をこの作品を通じて継続して考えてみたい。

テーマ:ロミオ×ジュリエット - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/06/13(水) 09:52:59|
  2. ロミオ×ジュリエット
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『ハルヒ』に見るヲタ・アニメの不可能性(1)

『涼宮ハルヒの憂鬱』(石原立也監督、2006)
小説『涼宮ハルヒ~』シリーズが原作。

■このブログでは原作ノベルの評価ではなく、あくまでアニメ作品としての『涼宮ハルヒの憂鬱』について考えてみたい。当然、原作評価とも大いに重なるのだが…(キョン的口調)

■涼宮ハルヒはいわば「ツンデレ」を匂わす女子高生である。彼女に、主人公でストーリーテラーの男子高校生キョンがひきずりまわされるというストーリー構成だ。彼の周囲には、萌え系、無口キャラ(綾波レイ系)などのいわばヲタ好みな女性キャラが配列されているが、キョンは基本的には冷めた態度をとる。

■実はこの冷めがポイントで、いわば本作品が多くのヲタを惹きつけた点もここに拠っているところが大きいと考えられる。現実的に、ツンデレに関して、ツンに内向的なヲタがお近づきになりデレを拝めるかといえばほぼ不可能である。いわばツンデレとは妄想による虚像であるといえる。
そこで、もしキョン自身も内向的でコミュニケーション下手な「ヲタ」キャラだったとしたら、彼への没入度合いが大きくなってしまい、いわば「現実」を見せられることでヲタは興ざめしてしまうだろう。しかし、キョンが冷めているという、ヲタには「不可能な」性格を付与されていることにより、ハルヒへの没入度は画面の外、つまり各ヲタ個人の裁量に任されている構図である。

■『ハルヒ』について、その構成や画像などへの評価が高いことは認めるが、ストーリ的に語ることはほとんどないといってよい。つまり、どこかで聞いたような話をハルヒなどのキャラの絡みが引っ張っていくというどうしようもない内容である。ただ、話が飛び飛びだったりするのは、それこそ「ハルヒ」的破天荒さそのものであったりして面白いのだが。

■ここで確認しなければならないのは、私が「はじめに」で書いたようなアニメの奥深さと表現の自由さは、多くは彼ら(私も含め)「ヲタ」によって支えられているということだ。これは非常に大切なことで、視聴者が得られない映像文化は消費社会の中ではやはり生き残れはしない。視聴者を獲得するためにはアニメの武器である「不可能的な夢」などを売っていく必要もあるということである。

続く…

テーマ:涼宮ハルヒの憂鬱関連 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/06/13(水) 07:33:17|
  2. 涼宮ハルヒ
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現代アニメの出発点としてのエヴァ考

■現代アニメを考察、批評する上で『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明監督、1995-1996)は避けることはできない作品だ。現在、一般に「セカイ系」と称される作品の多くは、ポスト・エヴァ的要素を含んでいる。

■主人公の少年碇シンジの葛藤は、ときに彼のみが守ることができる「セカイ」と同調し、ときに「セカイ」と対峙・葛藤する。その痛みは視聴者(少年ならずとも青年、大人)の迷いにも通低している。

■しかし、個人の内面セカイという、今までの従来のアニメ作品では閑却されてきた題材を扱うことは、勧善懲悪的なシステムとの闘いという従来の単純図式を超えてしまった。つまり、アニメ作品としては大風呂敷を広げすぎたテーマなのだ。よって、ポスト・エヴァ作品群は、『エヴァ』の(不完全な)ラストシーンの再解釈をめぐるものとなっており、『エヴァ』にどう応答していくかをめぐるものである。
たとえば『RahXephon(ラーゼフォン)』(出渕裕、2002)、『創聖のアクエリオン』(河森正治、2005)などが顕著な例であろう。

テーマ:新世紀エヴァンゲリオン - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/06/13(水) 06:30:52|
  2. エヴァンゲリオン
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はじめに

■日本の現代アニメーションは活況を呈しているといってよいだろう。ただし、その大多数が消費欲望を満たすための道具だが、中には優れたアニメ作品が存在している。
これには幾分、映画やテレビドラマが同一テーマ、表現形式の再生産に完全に陥ってしまっていることが影響しているといえる。日本の映像文化のポピュリズムは危機的状態である。特に新たな視点の欠如やいくつかのタブーの存在とそれに抵触することを極端に拒否する状況は異常といってよい。
そんな状況の中で、アニメは映像表現の残された実験的活動域として重要な位置を占めていると考えたい。
  1. 2007/06/13(水) 06:18:24|
  2. 理論
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批評によって「アニメをより面白く」がモットーです。
色んな角度からアニメを観る試みをしたいと思っています。

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