現代アニメ批評-アニメをさらにおもしろく-

現代アニメのストーリー面を主に批評していくブログです。自分の着想や視角をアニメーションをよりおもしろく観る「補助線」として書き綴っていきます。

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問いは立てられた:天元突破グレンラガン(2)

※現在、第18話まで視聴

■4月期からの2クールアニメが続々と結末へと流れ込んでいる中で、注目したいのが『天元突破グレンラガン』だ。現在、結末へと向かうにあたり、最後に答えられるべき「問い」が提示された。

■それが「トップ」へと向かう意志(本能)と、世界(もしくはセカイ)の存在との非整合性だ。これはいうなれば現代的な「環境問題」に通じるものであるが、本作品の場合、アニメの特性を活かした象徴的なメッセージに留まっている。ここで観賞の上で比較したいのが『トップをねらえ!』シリーズと『エウレカセブン』だ。

■『グレンラガン』が、同社製作のOVAアニメ『トップをねらえ!』的な悲しくも爽快な結末を用意するのか、それともこの「問い」に真っ向から挑み『エウレカセブン』的な主人公自身の答えを提示する方向を強調していくのか、そこに注目したい。それは特にシモンとニアの関係をどう結末付けるかということである。

◆ブログ内関連記事:
・『エウレカセブン』:空と大地の和解
セカイ系を考えるとき(1)

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テーマ:天元突破グレンラガン - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/07/29(日) 09:37:56|
  2. 天元突破グレンラガン
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観察される「オタク」(1):『げんしけん』

『げんしけん』(池端隆文、2004年)
Genshiken
公式HP
・ストーリー(Wikiへ

■いわゆる「オタク」には多くの場合、内向的イメージがつきまとう。実際、閉鎖的な世界感を持つ人が多いのかもしれない。ただし、趣味の世界とは常に閉鎖的であるのではないだろうか?

■また、オタクに注目するのは、彼らが「楽しそうに」「生き生き」と生活しているからでもあるだろう。オタク的に生きることは、実はそこに生きる糧としての「夢」が存在しているのだともいえる。

■では本来、アニメを愉しみ消費する側の「オタク」は、アニメの中ではどう描かれるのか?

■『げんしけん』で描かれるのは、一介のオタクたちの話だが、それを非オタク女性キャラ、春日部咲(かすかべさき)によって外からの眼差しを導入する。もちろん、これは閉鎖的なオタクというテーマを漫画やアニメとして「開放する」ためには必要な眼差しであろう。

■しかし、その春日部も「げんしけん」メンバーと学生生活をともにすることで「オタク」の魅力を発見するのだ。つまり、そこには「生きる原動力」が存在していることをだ。

観察される「オタク」(2):『N・H・Kにようこそ!』に続く…


テーマ:アニメ - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/07/28(土) 19:55:10|
  2. 観察される「オタク」
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13歳で死を受け入れられるか?:ぼくらの(7)

『ぼくらの』(森田宏幸監督、2007年7月現在放送中)
公式サイト

・総集編より
■この時期(7月)になると、4月スタートの2クールアニメは、総集編を組むことが多い。その中で今までたくさん記事を書いてきた『ぼくらの』に関して考えてみたい。

■『ぼくらの』のロボ操縦者はその多くが13歳であり、操縦後に死ぬ運命にある。総集編を観ていて感じたのが、彼らの死に際の決定についてだ。各々が自己の死を、正当化もしくは納得させて死んでいく。その中でも、本ブログで好評した第5話~8話のカコは印象的だ。彼は死という現実から逃げ続け、戦わずして死ぬことになった。

■そこで総集編のカコ以外の死のシーンについてだが、素朴な疑問として13歳にしてカコ以外の選択を選び取ることが出来るのかと思ってしまう。生への執着、翻って死への恐怖は思春期に高まるといってよい。つまり、少年期から思春期への万能感は、その喪失への恐れと表裏一体だ。

■『ぼくらの』では多くの場合、その矛盾を13歳の少年・少女たちの「特殊な環境」という設定に頼り解消してきた。友人の命が救える環境、親代わりの環境、家族に新しい生命の誕生などだ。

■このように、13歳で死を受け入れられるかという実は答えのない問いから、アニメ『ぼくらの』を観てみても楽しめるのではないだろうか。

・ブログ内記事:『ぼくらの』(1)~(6)

テーマ:ぼくらの - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/07/28(土) 06:35:40|
  2. ぼくらの
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『ぼくらの』の椅子:語りかけるアニメ(3)

『ぼくらの』(森田宏幸監督、2007年7月現在放送中)
公式サイト
※加筆・修正し再掲載

■今まで『ぼくらの』の中の、その「痛さ」や戦闘における「生と死」の表現について書いてきた。今回は、それらを結びつける象徴物について書きたい。それは、本作品の中で重要な意味をもつ「椅子」についてである。

■簡潔に説明すると、ロボット?「ジアース」の操縦桿である「椅子」はそれぞれのパイロット(主に子供たち)の慣れ親しんだ椅子である。それは勉強椅子や座布団、そしてロッキングチェアーなど様々だ。この「椅子」に座って登場人物は、操縦すると死亡するわけだから、まさに自らの命を賭け闘うのだ。

■さて、この作品の中で「椅子」とは何を示しているのだろうか?それは、その人物にとってかけがえないのない「場」であり、そこに存在したという証である。ありふれた椅子も、そこに座る人間にとっては、交換不可能な「場」であるのだ。

■『ぼくらの』は、ロボ戦闘モノでありながら「死」に大きな意味がある点が従来のロボアニメと一線を画している。それを演出する道具が椅子であり、そのメタファーだといえるであろう。

■この意味で椅子は、まさに自己アイデンティティと関わっている。自分がありふれた存在だと感じることで虚無感に襲われたり、ストレスを感じたりするのが現代社会だ。なぜそんなストレスを感じるかというと既に「世界の広さ」を情報媒介物によって簡単に知りうる現在、「自己のちっぽけさ」や「ありふれた感じ」を知ることは辛いのだ。

■思春期はその「現実」と自己定義の相克であるといってよいだろう。『ぼくらの』では、子供たちが自己が結局は無力でちっぽけだが唯一存在だという、この相克する事実を受け入れて死んでいくことをテーマにしているといえるだろう。

■ちなみにテーマ曲の歌詞にも、かけがえのなさ(交換不可能性)が表現されており、そこにも「椅子」は登場している。

・ブログ内関連記事:『ぼくらの』(1)~(5)
アニメが語りかけるとき:『精霊の守り人』、『地球少女アルジュナ』(1)~(2)

テーマ:映像・アニメーション - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2007/07/27(金) 23:28:43|
  2. 伝えようとするアニメ
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「天」は突き抜けられるか?:天元突破グレンラガン(1):空とアニメ(5)

『天元突破グレンラガン』(今石洋之監督、2007年7月現在放送中)、公式HP
※現在、7話まで視聴。

■前からチェックしていたが、なかなか観る機会がなかった作品。現在も放送中だが、前半だけで批評したい。

■ストーリーは「穴蔵の街」から始まり、地上へ、そして天を目指していく。前に連続記事「空とアニメ」指摘したようにアニメの「爽快さ」は視聴者をひきつける大切な要素だ。始まりが地下であるのは、その爽快さを効果的に高めている。そしてまた「天(トップ)をめざすという」という設定にしても、ガイナックスお得意の「突き抜ける爽快感」を駆使している。

■これも「空とアニメ」の『時をかける少女』で書いたが、少年期の万能感を刺激する表現媒体としてアニメーションはそこに表現の魅力があるといえる。しかし、「突き抜けた」爽快感は一時的な感覚で終わってしまい継続力がない場合が多い。別にこれ自体を非難しないが、いわゆる「ハリウッド的アクション」というものだ。その点で、同社ガイナックスの『エヴァンゲリオン』は異質であったし、多くの反感を呼ぶものともなった。

■これからストーリーに深みが増してくる時期にさしかかり、ここではその期待感をブログ記事として記しておきたい。

★ストーリー(公式HPより):
遥かな未来。
人々は地中に穴を掘って家を造り家畜を飼い、
時折起きる地震と落盤に怯えながら何百年も息を潜めるように暮らしてきた。
そんな村の一つ・ジーハ。
村を広げるための穴掘りをしていた少年・シモンは、
ある日、掘り進んだ先で偶然、不思議に光る小さなドリルを見つける。そして、シモンの兄貴分である青年・カミナ。
彼は、村の上には「地上」があることを信じ、グレン団というチンピラグループを率いて天井を突き破って外へ出ようと目論んでいた。そんなある日、地震と共に村の天井が崩れ巨大なロボットが落ちてくる!
カミナは確信する「やっぱり地上はあった!」そして、無謀にも村で暴れるロボットに立ち向かおうとする。その時、更に地上から何かがやって来た。それは、巨大なライフルを持った少女・ヨーコだった。彼女は、ロボットを地上から追って来たのだ。しかし、ライフルの威力では、倒すどころか足止めをするのが精一杯。そんなピンチの中、シモンは、以前、地中から掘り出したモノをカミナとヨーコに見せる。

それは、顔だけの謎のロボットだった…。


テーマ:天元突破グレンラガン - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/07/26(木) 07:27:30|
  2. 天元突破グレンラガン
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『REIDEEN』の作戦(?)はハマるか:『REIDEEN』(2)

『REIDEEN』(本郷みつる監督、2007年7月現在放送中)公式サイト

■過去一度の変形リメイクを経た『ライディーン(REIDEEN)』だが、いくつかのリメイク(リプロダクト)の宿命を背負っている点に注目したい。

■『勇者ライディーン』が放送された1975年は、まだ英雄的主人公と悪の組織という構図が成立し、それにロボットのかっこいい戦闘に魅せられた子供達がたくさんいた。

■しかし、昨今のアニメ需用の高齢化と勧善懲悪構図への飽き、もしくはその構図を超えた「リアル」を欲する視聴者の熟練化によって、『勇者ライディーン』はノスタルジックな感傷を呼ぶものでしかなくなってしまったといえる。

■だが、リプロダクトする際には、30年前の「愉しみ」を活かしつつ、眼の肥えた視聴者を満足させることも重要だ。

■そこで、『REIDEEN』はある「作戦」を埋め込んだ(もしくは成り行き上そうなった!?)のである。前にも書いたが、冗長なロボット登場や「技」のシーンはメディアの高速描写に慣れきった私達には退屈であろう。しかし、本作品は第19話に至るまで未だにヒロインを謎のままに伏せている。しかも、オープニングでは彼女にしか焦点を当てていない、アイドルプロモーションビデオ張りの演出にも関わらずだ。

■それが最近、15話以降から効きはじめている。たいてい、同時期に始まったほかのアニメは15話くらいから絵が荒れたり、ストーリーも補足的な内容になりがちだが、『REIDEEN』はヒロインの謎のほりさげ、そして主人公の内面の掘り下げをここまでひっぱたが故に今注目すべき内容になっている。

■さて、ここまで引っ張ったロボ以外の描写がこれからどうなるかに注目したい。

・ブログ内関連記事:戦闘と生活:『ぼくらの』と『ライディーン』を比較する

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テーマ:懐かしアニメ - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/07/20(金) 10:09:36|
  2. REIDEEN
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アニメが語りかけるとき(2):『精霊の守り人』『地球少女アルジュナ』など

続き…
■『精霊の守り人』は、女用心棒バルサがチャグムを教育するという側面以上に、文化人類学者である原作者の知見から構想された設定や背景などによる語りかけが強い。これは、アジアを基調としたファンタジー的世界観に深みを持たせることに成功してている結果である。そこでは、近代化された都市生活では失われたか、忘れられた文化風習について精緻に描かれている。そこで視聴者は、そういった生活世界の方が多様性があり複雑であることを感じ取ることができる。

■一方で、『地球少女アルジュナ』は、地球環境の悪化と現代社会について、神話的世界観を用いつつもリアルに伝えようとする。今のわれわれが存在する地平について、アニメーションを用いて「リアル」に伝えようとするのだ。

■両者ともに「気づき」が仕掛けられているが、その寄って立つ表現の源泉は間逆である。つまり、現代世界を主人公の生活世界とするか、前近代的といわれる世界を表現の出発点とするかである。これにはどちらも一長一短あり、どちらが優れているかを判断することは不可能だ。

■『精霊の守り人』では失われた風習などを取り扱うが、その「よさ」をどうわれわれが感じ取り、自身の生活の思考の糧とするかは難しい。『アルジュナ』では、現在の生活空間の中で忘れ去られたものを確認する作業がより明示的だ。

■他方で、『アルジュナ』は視聴者に説教くささを感じさせるという点もある。『精霊の守り人』は童話的な成功により、説教くささはあまりなく、視聴者の感性に直截的に響くものをもっている。

ブログ内関連記事:
「大人」を描くアニメ:『精霊の守り人』(1)

テーマ:精霊の守り人 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/07/18(水) 04:50:13|
  2. 伝えようとするアニメ
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アニメが語りかけるとき(1):『精霊の守り人』『地球少女アルジュナ』など

■アニメーションは、前に書いた童話絵本としてのアニメように、ヴィジュアル的に人々を魅了しながらも、ある種のメッセージ(伝えたい事柄)が含まれている。

■一般的に、中身の薄いアニメというのはメッセージ性が弱いことに起因していることが多い。つまり、これは人が作品を需用し満足感を手に入れたいという意向に沿わないことを意味している。もちろん、メッセージはただ単に強ければ良いというものでもないし、メッセージ性など無くても画像美や爽快さによって「魅せる(もしくは萌やす!?)」アニメの存在を否定するつもりはない。

■しかし、それだけを13話から50話ほどまで連続するアニメの場合、消費者を満足させられないことが多い。例えば、爽快感だけで魅せる面白い試みの一つとして宮崎駿『On Your Mark』(Wikiへ)などをあげてもよいが、あれも『耳をすませば』の前座の短時間作品であった。

■アニメにおいて「伝えたいこと」は各種存在しており、少年ジャンプ的発想からすれば「勇気」「冒険(ワクワク)」「友情」などであろうが、それ以外には「平和」「戦争の悲惨さ」「非戦」などであったり、ときには「自然の大切さ」「自然との共生」などであったりする。

■今回は、「(自然との)共生」や「生の意味」という観点からメッセージを放つ作品群から、2007年現在放送中の『精霊の守り人』を中心に考えてみたい。それ以外には『地球少女アルジュナ』について、また、余裕があればそれ以外にも言及したい。

続く…

ブログ内関連記事:
「大人」を描くアニメ:『精霊の守り人』(1)
『エウレカセブン』

『耳をすませば』と『時をかける少女』(1)
耳をすませば』と『時をかける少女』(2)


アルジュナ


※過去の記事を修正後、再掲載

テーマ:映像・アニメーション - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2007/07/16(月) 00:18:54|
  2. 伝えようとするアニメ
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戦闘と生活:『ぼくらの』と『ライディーン』を比較する

『ぼくらの』(森田宏幸監督、2007年7月現在放送中)
公式サイト
『REIDEEN』(本郷みつる監督、2007年7月現在放送中)公式サイト

『ぼくらの』:現在、第14話「迷い」まで視聴。(※ネタバレあり)
『REIDEEN』:現在、第18話まで視聴。

■以前に、『ぼくらの』で子供に注目しすぎるが故の大人へのまなざしが欠如していることについて言及した。これに対して14話から大人へとストーリーは拡大していく。自らもジアースの操縦者となった田中が同操縦者の宇白純の実の母親であるという設定と認知研の吉川の母子の問題である。

■ここでアニメ(特にロボット物など)に登場する「戦闘行為」と生活について考えてみたい。現在、放送中の『ライディーン(REIDEEN)』と『ぼくらの』をくらべてみると面白いことが分かる。

■『ライディーン』では設定を現代に置き換えてはいるが、30年前のロボット物の伝統を受け継ぎ、ロボットの戦闘と日常生活との間に隔絶が存在している。明らかに戦闘行為の描写に時間を費やし、生活や主人公の葛藤などの描写は戦闘とは「別世界」の出来事のように感じる。

■それに対し、『ぼくらの』においては戦闘行為そのものが必然的な「死」をめぐるものであり、生活(生きること)に焦点が当てられていた。ここには戦闘行為と生活の差異はあやふやなものになっている。

■『ライディーン』ではエヴァ以前のヒーロー物の「生と死」をうまく象徴している。つまり、主人公ヒーローは死の危険を象徴的には感じつつも、(最終話までは)死んではならないという規則のもとにおかれているのである。

■エヴァを体験した世代にとって、『ライディーン』は一種の懐かしさはあるが、退屈に感じる部分が多く『ぼくらの』の方に強く惹きつけられるといって良いだろう。ただ、『ライディーン』も15話以降、ロボット戦闘シーンが減らされ、主人公、才賀淳貴の等身大の生活空間へとストーリーが移行してきている点には注目したい。

■さらに『ぼくらの』に関しては、戦闘する主体に親も子も巻き込まれているという設定は新しく、今後に期待するところ大である。




ブログ内記事:
『ぼくらの』(1)~(4)

テーマ:ぼくらの - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/07/15(日) 18:12:23|
  2. ぼくらの
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正常と異常と架橋する「嗜好」:Darker than Black(2)

『DARKER THAN BLACK-黒の契約者-』(岡村天斎監督)
解析不可能な異常領域「地獄門(ヘルズ・ゲート)」の出現により、本当の“ 空” を失った東京。
それと呼応するように現れたのは、特別な能力を身につけた者たちだった。
能力を得る代償として、人間らしい感情が希薄になり、人を殺めることさえ冷徹に行う彼らを、人々は畏怖を込め、「契約者」と呼んだ。
(公式HPより一部抜粋)

現在、第14話まで視聴
DARKER THAN BLACK


■本作品の重要な設定が、契約者の契約とその「対価」だ。契約者は超人的な能力を手に入れる代償として必ず何かの行動を行わねばならない。

■代償行動は、契約者によって様々だ。たとえば、「ビールを飲む」や「石を並べる」、そして「詩を読む」という行為から「異物を飲み込み吐く行為」や「自分の指の骨を折る」などである。

■『Darker…』では、「契約者」は感情をなくした殺人鬼としての異常者として定義されている。しかし、この正常と異常の境界線は、主人公の黒(ヘイ)を通じてぼかされている。彼は「感情」を持っているが如くに描かれているからだ。

■そこで、私が重要なキーワードとなると考えるのが「対価」の存在である。「対価」はいわば強迫的な「嗜好、趣味、癖」であると理解することができよう。

■一般的に「嗜好」は誰もが持つものであり、それが、たとえば極端に「自分の指の骨を折る」などになった場合には異常とみなされる場合が多い。ただし、たとえば「石を並べる」は異常行為と思えばそうかもしれないが、趣味や癖の類だとも思える。むしろ、嗜好自体が「異常」「正常」の境界を横断して存在しており、それを決定しているのは社会的な定義や法律といった制度であることに気づかされる。

■自分の感情を喪失し夢を見ることがなく、たやすく人殺しをする「異常」な存在である「契約者」は、嗜好という行為を通じて、「人間らしさ」を保っているのかもしれない。そしてそうであるからこそ、逆に「人間らしい」。

ブログ内リンク:閉ざされた空間とテクノロジーの魔物:『Darker than Black』(1)

テーマ:DARKER THAN BLACK -黒の契約者- - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/07/10(火) 19:02:30|
  2. Darker than Black
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「大人」のための童話絵本としてのアニメーション

■「大人」の世界は厳しく、その込み入り様や虚偽、欺瞞は途方もなく大きい。そんな世界(社会)に「子供」がいきなり飛び込み生活をせねばならぬとしたら、そのストレスはトラウマになりかねない。そんな社会システムの中で「子供」から「大人」を架橋する表現媒体として登場してきたのが童話や絵本だ。アニメーションはもともと、童話+絵本的要素を備えた表現体として生を受けているといってよい。

『精霊の守り人』(1)の記事でも書いたが、「大人」も当然、概念の一類型に過ぎず、二十、三十歳になっても「子供」的要素が抜けきらない人間はたくさんいる。かくいう私も胸を張って、「子供」的要素を払拭したなんて口が裂けても宣言できない。たとえば、「子供」な人にありがちな例をあげると、幼少期の万能感を引きずり、自分の思うようにならなかったらやる気をなくしたり、理屈をすっ飛ばし感情的になってしまうことなどである。

■また、はじめに子供のトラウマ(精神的外傷)について触れたが、何もそれは14歳前後に訪れるだけのものではなく、何歳になっても、社会との摩擦でのショックや記憶を用いた自己定義の刷新などが生じている。思春期に起きる揺れは子供(少年期)だけに限ったものではない。

■話をアニメに戻すと、私はここで、アニメーションを視聴する年代が高年齢化しているを幼児化している大人とは定義したいわけではない。前にも書いたようにアニメーション自体が高度化していると主張する方に組したいと思う。

■そこで高度な表現手段である良質なアニメーションは、実は大人のための絵本童話的要素を秘めている。子供だけに迷いやショックに対する治癒(指針の提示、カタルシスなど)が特権化されているわけではないからだ。

続く…

テーマ:映像・アニメーション - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2007/07/06(金) 09:40:45|
  2. 理論
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「大人」を描くアニメ:『精霊の守り人』(1)

『精霊の守り人』(神山健治監督、2007年7月現在、放送中)

■NHK(BS)で土曜の朝8時6分から放映されている本作品だが、この特徴はズバリ「大人」が描かれているところだ。主人公バルサは第一話で既に自らが三十歳であることを明かしている。

■アニメを子供のために解放せよ、もしくは子供の観ることができる時間帯に戻せという議論があるのは承知している。ただ、闇雲にアニメ放送時間帯を土日の朝や夕方~ゴールデンにしたとしても、質が低下してしまっては意味がない。つまり、深夜時間帯であるからこそ語れる内容や表現方法があるはずだ。それは時にも暴力的かもしれないが、残酷な表現も露出主義に陥らなければ必要なものだ。

■さて、本作は「大人」バルサが影や過去を持ちながらもクールに「子供」と向き合っていく(現在、第5話まで視聴)。原作は、上橋菜穂子の児童文学作品(未読)だが、設定の細かさは原作本ありきの優位性をうまく利用できている。

■既に過去の記事でも書いたが、セカイ系アニメにおいて、十二~十七歳くらいまでの主人公を描くのには理由がある。それは、この年代が一般的に、子供から大人へと成長する時期だと見なされているからだ。

■しかし、本作主人公バルサのごとき三十歳の大人はまわりを見渡して見ても存在しているだろうか?そこが本作品でバルサをどう捉えるかの鍵になりそうだが、これ以後は続きを観てからにしておきたい。

→関連:「大人」とアニメ:空とアニメ:『エウレカセブン』
:セカイ系:セカイ系を考えるとき(1)

moribito1

テーマ:精霊の守り人 - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/07/06(金) 07:36:31|
  2. 精霊の守り人
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死の意味の希薄化と物語の展開:『ぼくらの』(4)

『ぼくらの』(森田宏幸監督、2007年7月現在放送中)
公式サイト
現在、13話『地球』まで視聴しました。

■人が生の感動に慣れてしまっているように、死も度重なればその悲しみにも慣れてしまうものだ。特にアニメーションという表象ともなれば慣れは現実世界よりも早く訪れる。

■本作品では、ほぼ毎回登場人物の死が訪れるために、前半から「死の意味」をめぐるストーリーが続いてきた。それはある時には突然のものであり、ある時には生へとつながる死として表現されてきた。やはり、この死の意味が「新鮮」であった第5話~8話の千鶴編の出来は非常に良かった。

■9話以降、死と生を結びつけた話が続いたが、13話にいたって話は大きく展開した。むしろ、このブログで取り扱ってきたテーマからすると「セカイ」が広がったというべきか。しかし、今回で、主人公たちの「生活世界」と「セカイ」の隔たりを生み出したことで、これからどうストーリーを進めていくかが難しくなってきたといえる。つまり、「身近なセカイ」を描くことに困難さが生じた。

■そこで、作品内で死の意味が希薄になってきたことを逆に利用する展開を期待したい。

■『ぼくらの』に関しては純粋な批評というよりも、リアルタイムな日記式の期待を込めた批評的感想という形になってしまっているが、これからも『ぼくらの』に関してはこの方針で書き進めていきたい。

カテゴリー:『ぼくらの』(1)~(3)

テレビアニメ『ぼくらの』DVD Vol.1
ぼくらのDVD1

テーマ:ぼくらの - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/07/05(木) 07:37:15|
  2. ぼくらの
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「セカイ系」を考えるとき(1)

■本ブログでは「セカイ系」を、登場人物とその空間(空気)との関係性において把握してきた。それが、この多義的な新語を操る上での第一歩であるように思えるからである。

Wikiなどで多くの説明がなされているが、その中で一つ立場を表明すると、私はエヴァの項で触れたように「セカイ系」は『エヴァンゲリオン』から発するものだと考えている。ただ、Wikiの他の説明文については、興味深いし同意もできるが、メディア論や社会学の専門家でない私は、もっと単純なところから「セカイ系」を考えてみたい。

■本ブログでは「セカイ系」をアニメの文化史的側面と、映像文化で忘れてならない視聴者との(一方的ではあるが)相互性から理解し、定義したいと思う。

■アニメの文化史的側面から考えると、「セカイ系」とは勧善懲悪的世界観からの脱却であると考えられる。つまり、セカイの「敵」=「悪の象徴」であるという単純図式をかなり意図的に脱却した作品をセカイ系作品と呼びたい。そこでは、「敵」や「悪」の概念は曖昧である。その中では、主人公(たち)の主観性からくる葛藤や悩みが描かれる。この意味ではかなり広義の「セカイ系」を支持していることになる。

■また視聴者との相互性の問題からすると、思春期を中心として人生の中に絶えず訪れるような、現実世界での自己と世界の葛藤を主人公を通じて追体験させるという作品がセカイ系であると考える。ただ、そこにあるのは、単純な感情移入とは異なっている。たとえば、多くの勧善懲悪作品の場合、自己の強大さや万能感の増大を担保するものが主なモチーフであった。しかし、「セカイ系」の主人公たちには相矛盾する感情を持って見つめる「視聴者のまなざし」が向けられているように思う。ひとつは、セカイの命運を握っているのは私だという万能感の保持(気持ちいい、同化)、そしてもうひとつは、セカイとの衝突によって自己の痛みを感じること(気持ち悪い、異化)である。

■つまり、視聴者に向けては、絶えず視聴の欲望を駆り立てながらも、「難題」を投げかける「キモチ痛い良い」ものが「セカイ系」アニメーションであるように思う。つまり、多くの現代アニメがこれに当てはまるのではないだろうか。

■そこで本ブログでは、視聴者とつながっているセカイをどうアニメが表現しているかを私はこれからも取り上げていきたい。これを批評することこそが、アニメ批評とアニメの良質化を結びつける道だと思うからだ。

テーマ:映像・アニメーション - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2007/07/01(日) 23:40:42|
  2. 理論
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こどもに注目するが故の陥穽:『ぼくらの』(3)

『ぼくらの』(森田宏幸監督、2007年7月現在放送中)
公式サイト

■あまり重箱の隅つつきはしたくはないのだが、これからの展開の期待感を込めて、本作品での「オトナ」の扱いに注目して書いてみたい。といっても、各少年・少女の親などに注目するわけではない。

■今回は、国防軍軍人として登場する田中、関の二人についてだ。彼らは、国防軍の軍人として巨大メカ?ジアース(操縦すれば必ず死ぬ設定)の操縦者として志願した。

■本作品は、『ぼくらの』と題されるように子供たちの「セカイ」系としての意識が強い。ただ、軍人として自主的に死ぬ運命を背負ったふたりについては、今のところ、彼らの死をめぐる葛藤や掘り下げた描写は見受けられない。

■子供の登場キャラにも友人・家族がいるように、大人の彼らにだって友人・家族は存在する。それを「軍人」だからといって「当然のこと」として命をささげるというのは時代錯誤も甚だしいと言わざるをえない。この部分の細かい描写を今後、10話以上の残話の中で期待したいと思う。

関連記事:
『ぼくらの』(2)
『ぼくらの』(1)

テーマ:ぼくらの - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2007/07/01(日) 06:59:46|
  2. ぼくらの
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Author:anicri
批評によって「アニメをより面白く」がモットーです。
色んな角度からアニメを観る試みをしたいと思っています。

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